罫

diary

information

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< April 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

吉増剛造展

 

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展へ

 

ナルシズムから解放された

観念の美という宇宙感にゆられゆられ。

 

イベントでは吉増さんと

ギターの大友良英さんのDUOもあり。

 

一夜明けても

朝からその余韻にさざ波たっています。

 

ーああ、さざなむ、さざなむ

と声にしながら。

 

国立近代美術館にて

こちらにリンクを。

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展

 

 

そして、帰り道の竹橋駅。

 

NHKの教育番組のお姉さんをしていた頃

朝早くから通っていた竹橋。

 

吉増さんの展覧会のあとだったからかな。

とてもリアルにあの頃が蘇ってきて思わずぱちり。

 

地下の風に煽られる紙屑も

スロー再生でみえて。

 

吉増さんのなにかに私は触れたみたい。

無自覚なんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


内側に触れていく(そしてマクベスの感想)

 

外にひらくことと
内に触れることに

優劣はない

人に対して
明らかか
明らかでないか

心や時間に対して
有言か
無言か
その違いがあるだけだ

なぜ人は尊重すると言いながら
それを待てないのだろう

待てないということは
信じられないということだろう

人間でいる以上
猜疑心は不可欠だし
わたしは猜疑心という
水晶のようなまるい感覚を
すごく大切に
心の左側にすこしずれた中心にしまっている

それでも

それでもなんだか
いくじなしだ

みんなが
みんないくじなしだ

わたしももちろん
そのいくじなしというドットの一部
規則性なく振動するドットの一部

それでも
いくじなしすぎる

たぶん複雑なんだ
単純すぎる答えは
複雑なふりをするのがとてもうまいから


*写真は佐々木蔵之介さんの一人芝居マクベスをみに行った時のもの
佐々木さんが殻を破ろうとする姿を
演出がリードすることで脚本を成立させているように感じた

おもしろい脚本だった。
演出もあきらめがなくてよかった
佐々木さんもだいぶよかった

でもすべてをまっさらにしたときに
役を演じるという部分だけでは誰がいいのかと想像をしていた

段田安則さんとかおもしろいかもしれないとおもった
















障子の国のティンカーベル

 


野田秀樹さん脚本の一人芝居「障子の国のティンカーベル」を先日観に行ってきました。
主演は毬谷友子さん。

この脚本は野田秀樹さんが25歳の時に書いた脚本とのこと。
それはすごくわがままで、滑らかさのない展開や言葉だった。

でも感じるのは、夏葉で肌を切られそうな、青竹の乱雑な爽快。

ふとおもうのはこの脚本を書いた若者が今も若者だったとしたら
きっと毬谷友子さんに演じてもらうことは出来なかったかもしれない、ということ。

もうそれは、それだけで生まれる異次元。

演出は、マルチェロ・マーニ。(さん。)

脚本と役者に反するように、埋めるように。
それぞれの存在とまた違う
調和と斬新というスパイスが舞台に放り込まれる。

それにしても。

脚本と演出と役者。
そのそれぞれがまったくの異空間で成り立っているなんて。

この世界観、はじめてかもしれない。

毬谷友子さんの希望がかなって上演となった作品。
その吸引力。
女優という生き方があまりに素敵で、帰り道は自分の軟弱さにぐったり。

私にはストイックさがないんだ。
ああーあ、ストイックさのみじんもない!!


「障子の国のティンカーベル」
当日券もあるみたい。








鴨居玲展 踊り候え展

 


東京駅にあるステーションギャラリーに
「鴨居玲展 踊り候え展」を観に行ってきました。

自ら命を絶って30年。

不思議だったのは鴨居玲の思念のようなものが過去の作品にはどこか薄いこと。
過去の作品の素晴らしさはとてもわかりやすいのに。

そして晩年になるにつれ色濃くなる命の存在。
誰かやなにかを描くことより自分を描くことで剥がされたかさぶたの鮮血。

それが息苦しいほどの彼なのだ。

この展覧会を貫く鴨居玲が「ここにもういない」感覚は
鴨居玲が自ら葛藤の中選んだ死であってもこの現実への未練のなさを感じる。

押しつぶされた時計。
過去が今、まだどこかに存在しているというような事実。

鴨居玲展 踊り候え展 
7月20日まで。

**

そしてどうしても不思議な構図の絵があった。
違うことを書きたかったんだろうなと想像したりしてた。

その描かれていない場所になにをおもって
そこにそのひとをそう描いたんだろう。
展示の配置の妙もあって、そのトリックにぞくっとしてしまった。

レンガの壁も素敵で。



エリック・サティとその時代展とボッティチェリとルネサンス展

 

Bunkamuraザ・ミュージアムは展示の仕方が安定しててすきなのだけど
今回はちょっと遊び心もあってそこもうれしたのしかった。

それは、空間にするからできる点のバランス。

エリック・サティとそこに繋がる人たち。
そして、その傍観者。

その距離感が生むからこそ聴こえる声。
カフェで隣りのひとの声が聴こえる距離。

そばだてた耳に、言葉の断片。

肉っぽい時代の洗練。
傍観者はおもう。
苛立ちや憎しみってかなしいくらい人間らしいと。

前回の「ボッティチェリとルネサンス」もよかった。


ボッティチェリのお仕事中の顔をたくさん見ることができた。
仕事してるあなたが好き、みたいな。

エリック・サティにもボッティチェリにも
ジレンマが生む哀愁と淡い美しさの狂気がみちみちてる。

それがとてもストレートに伝わってきて
そっと身体の内側の皮膜が剥がされる。

ああなんて快感。
それもすごくわかりにくいやりかたで。

観ることはインプットじゃない。
それはその通り。


エリック・サティとその時代展は8月30日まで。











岡崎京子「戦場のガールズ・ライフ」

 

なんだろう。
うっとりした。

岡崎京子展。

もう終わってしまったのだけど
世田谷文学館で3月31日までの展示でした。

ほんとうに、とてもよかった。
各地方でもやるのかな。

やるべきっておもう。

岡崎さんのペンが引く線には
あたりまえに命が宿っている。

その輪郭やそのキャラクターに
あたりまえにうごめくその魂。

岡崎京子さんというひとは
"そこに命を吹き込もうとしている"というより
"命につながる点しか書けないのか"とさえ思った。

きっとそれは
そこに点が生みでた瞬間と
出来上がった作品にまったく時差がないから。

点が線になることと命を描くことが
釈然とイコールになっている。

その潔い赤裸々さに、やっぱり心は打たれてしまう。

ほんもののそれってやっぱりすごいな。
それ以上があるんだもの。

**

この展示の公式カタログは
amazonでも販売されているみたい。

展覧会のカタログだけどあの展示会のリアルはない。
でも、ひとつの方向として良い本になっているともおもう。



**

岡崎京子さんの点や線、あうんのもの。
描きたいものと、描かないもの。

私は私のまま、岡崎京子という作品を感じる。
その感じ方は、またあの頃と確実に変わっている。
(それも、激しく変わっていた。)

もし本棚にいつかの岡崎京子作品があるならば
いまこの時に読むそれはまた
ああすばらしいと、想えるはず。

私は大事すぎるくらい大事にまた読んでいます。

この時間にまたこの作品たちに
こうして触れられたことに感謝。


TO BE CONTINUED




茨木のり子展へ

 

大好きな詩人。
茨木のり子さんの展示を観に世田谷文学館へ。

小学生の頃から特別に「詩」がとても好きだったけれど
いわゆる10代後半から20代前半という激烈なときに
その背中で「詩」というもの「詩人」という生き方を教えてくださった方のひとり。

私が信じる「詩」には、一点の情動と躍動が研ぎ澄まされている。
それは「美」と「衝動」にほかならないもの。
言葉をこえて、波形となって、私の一点へと潜り込んでくるもの。

意味より先に涙に触れてしまうのは、そのためなのだと、おもう。
(すばらしい詩は言葉のあとを言葉の意味が追うものだと私は感じている。)

小さな会場にたゆたう茨木のり子の動脈と静脈。

方向感覚さえ見失いそうになる「そこに在るそのものたち」に触れて私は
その時間のなかずっと、大声で泣き出したくなっていた。

悲しいからとか美しいからとか、
そういう理由はひとつもない、もしくはわからないくらいの感覚に呑まれて。

自分がなにであるとか、なんのためであるのかどうでもいい。
それくらいせつなく私は詩という存在を想ってきた。
(完全なるに片思いのまま。)
その想いを、慰撫されたかのようだった。

ああ、また私は、変わってしまった。

知っているとか、知っていないではない。
その詩の向こうの新しい場所に、また確実に連れて行かれてしまった。

6月29日まで。

シンプルで、たくましい展示でした。




ブルージャスミン

 

このまえふらりと観た映画、ブルージャスミン。
とてもよかった。

脚本もキャスティングもとてもわかりやすく
芝居も素晴らしかった。

監督のセンスが際立ってて、
台詞やシーンの省きかたが、潔かった。

うまいなーって感嘆のため息がでる芝居をみると
じんじんと興奮して、じわじわ力が湧く。

やっぱりこの世界に芝居からはいった私だからかな。
良い芝居は最高のご褒美。

ブルージャスミンを観た後には、そんな嬉しさがありました。





一刻 前原冬樹展

 

彫刻家、前原冬樹さんの展示へ。
渋谷の文化村でちょうど時間がはまって。

個展はすこし前に終わってしまったようで残念!!
ああ、ほんとうに残念!!

この写真たち。
ひとつの木から彫りだした彫刻なんです。


これも。
その圧倒的な存在感は日常の空気を、濃くしてしまう。

木彫りの折り鶴の尾には
指でぐぐっとかたちを整えた指紋まであるようにたわんで。

どこにでもあるようなものが
誰かの脳の電流に触れたとき、こうも美しくなるなんて。

そう。
ふとした、日常は美しい。

ふとしたとき、ひとは油断をそっとしてる。
無防備さに訪れる無邪気さに、
いつか天から頂いたひかりは揺れたりしてる。

ああ!彫りだすってすごい。

そこにあるものに導かれるように触れながら、
それはきっと、はじめて出逢ってゆく行為なんだもの。

**

点数は少ないけれど。
文化村ギャラリーにて。

入場無料です。


6月4日まで。














さくら・さくら

 



写真家・大泉美佳さんの個展に行ってきました。
圧倒的な桜のエネルギーに感覚がくらくらになりました。

写真の下には、撮影場所や撮影した日が記されているのですが
あまりの写真のパワーで脳が文字を認識できなくなってしまうほど。

一枚一枚の写真が鋭敏な感性で繋がれたとき、その作品郡は一気に凄みを増す。
一枚一枚に記された、作者の感性と、被写体の放つもの。

ギャラリーで順を追って出会う写真には
言葉にならない物語がうごめいていました。

もしかしたらそれは
言葉をこえた物語、だったかもしれません。

あちらとこちらの境界線を、ふわりと超えた空間。

一枚の重み。
一枚への凄み。

その錆びない連鎖が導く、唯一の世界。
それこその、世界観。

一途な想いで桜を追い続ける大泉さんの
その揺るぎない灼け付くような感性に洗われた時間でした。

”ひとつひとつにぶれないことのもつ、凄み”
そこに今、なにかが触れています。






| 1/8PAGES | >>


罫
Ⓒ Chie Sawaguchi All Rights Reserved